宮森大地の歩み 〜 整体院すいっちストーリー 〜

お客様

「今日もすごくスッキリしました!宮森さん、ありがとうございました!」

宮森大地

「いえいえ、こちらこそありがとうございました!帰りも気をつけて」

神奈川県伊勢原市、駅から徒歩4分の立地にも関わらず物静かな裏通りの一角に建つ何の変哲もないマンションの一室でこのようなやり取りが日々繰り返されている。

整体院すいっちのあるマンションSD-2の外観。伊勢原駅から徒歩4分程度の立地だ。

五十肩、腰痛、坐骨神経痛、膝痛、脳卒中後の片麻痺、パーキンソン病…年齢を問わず、さまざまな症状を抱えた方が訪れる整体院がある。

整体院すいっちの院長 宮森大地は「お客様が自分の健康の在り方を選べる人生を送れるようにするお手伝いをする」「人生最後の日まで、自分の意思と自分の足で生きていただく」ことをモットーに日々の施術に励んでいる。

30代半ばを過ぎて10年以上のキャリアを積んできた宮森の施術やお客様への対応には、こだわりが詰まっているが、それは宮森の過去の経験からくるものである。

これは整体院すいっち院長の宮森大地の半生と想いを伝えるための物語である。

夢を失い、引きこもりになった高校時代

中学時代にそれなりに成績の良かった宮森は神奈川県内の進学校に推薦入学する。生徒数が多く、部活動も全国レベルで強いため名の知れた進学校なのだが、入学後の数週間で宮森はその学校に適応できなかった。

勉強が辛かったわけではないが、とある授業でわからない問題で教師に当てられてしまい、答えられないでいる時に教師が言い放った言葉にひどく傷ついてしまったのだ。

「公立中学のバカな教師が教えたからお前はこんな問題もわからないバカになったんだ!」

大人になった今ならば、その言葉はやる気を起こさせようとして言ったものなのだと理解できる。しかし、当時の宮森にとって中学校時代の友達や恩師は宝物であり、侮辱される筋合いはこれっぽっちもなかった。

宮森の夢は教師だったがこの事件をきっかけに教師を、人を信じられなくなってしまった。

おまけに学校に行く気が失せて、5月の連休明け頃には学校に行かなくなった。学校に行くふりをして家を出ては、親が仕事に出かけた頃に家に帰ってきて真っ暗な部屋でテレビゲームばかりする引きこもり生活を送るようになる。

もちろん、そんな生活を長く続けられるわけもなく、見かねた母親に「高校だけは出てくれ」と頼まれ、進学校は諦めて夏休み明けに偏差値が県内でも下から数えた方が早いような高校に転入学ことになる。

夢を失ってやる気もなく人間不信に陥っていたこと、親から言われた義務感で転入学したこと、そして何よりとても暗い顔で通学していたため、新しい高校でも友達は少しの間できなかった。

それでもクラスメイトが少しずつ話しかけてくれて、徐々にクラスに溶け込めるようになっていった。

宮森はこの時に「人を受け入れることの大切さ」「人に優しくされることの尊さ」を学んだ。

夢がない中、理学療法士を“たまたま”選んだ

少しずつクラスに馴染めていった時期に、進路の参考にするための職業適性検査なるアンケートを受けた。これはマークシート方式で200問近い質問にひたすら答えていき、その回答の傾向から「あなたにはこんな職業に向いていますよ」と適性を教えてくれるものだった。

「教師はもうなりたくないしなぁ…何が出ることやら」と思いつつ、マークシートをひたすら埋めていった。そして後日、結果が返ってきた。

適性の第1位には理学療法士とあった。さらに、理学療法士は家にいたのだ。

それは母だった。

教師という夢を失ったところだったので「適正で第1位だし、母ちゃんもやってるし、何かわかりやすく人の役に立てる仕事だし、じゃあそれで良いか」と単純な理由で理学療法士を目指すことにして大学に進学することを決める。

しかし、後に宮森はこの判断をひどく後悔することになる。

「君、理学療法士に向いてないよ」

理学療法学科のある大学に進学した宮森は、相変わらず勉強だけはそこそこできていたので学科の試験などの学生生活はそつなくこなしていた。

しかし、またも大きな事件が起きる。

理学療法士になるためには在学中の学科試験だけでなく、一定期間は病院や老人施設に実習に行き、それに合格しないといけないのだ。

元来の人見知りである宮森は萎縮してしまい、実習先の患者さんや先生方とまともにコミュニケーションが取れなかった。さらに、学科試験ができても現場での応用力のなかった宮森は実習先の先生方や患者さんたちに迷惑ばかりをかけてしまっていた。ミスを連発し、謝ってばかりいる宮森に対し、患者さんに「宮森さんは繊細だからなぁ、思い詰めないようにな」とフォローまでされる始末だった。

自分の情けなさを感じつつも何とか意地で実習を続けていた頃、ついに実習先の先生にこんな言葉をかけられる。

「君、理学療法士に向いてないよ。」

宮森はいよいよ突きつけられた現実に「ああ、理学療法士もダメなのか…この道を選んだのは間違っていたのかなぁ…」と、心が折れかけてしまった。

しかし、なぜか変なプライドだけは宮森の中にあり、留年や退学の選択肢はなかった。ひたすら実習期間を耐え続けて、ギリギリで実習をクリアする。

その後も勉強だけはそこそこできたお陰で国家試験も一発で合格し、無事に理学療法士免許を取得する。

「何とか大学卒業した!国家試験も通った!!」という自信だけを胸に理学療法士として働くことになる。しかし、実習時に明らかになった“人見知り”と“応用力の無さ”という大きな課題は残ったままだった。

この課題に向き合ってこなかったことで、宮森は後悔を続けることになる。

ダメダメ理学療法士に起きた事件

理学療法士は国家試験さえ通れればなれる、これを宮森は体現していた。

人見知りが直ったわけでも、理学療法士としての知識や思考、技術が磨かれたわけでもなかった。当然、就職先で患者さんや職員を含めて、迷惑をかけまくることになる。

知識や技術を教えてもらっていた職場の先輩からは「何でこんなこともわからないの?」と怒られ、半年もすると見捨てられてしまって教えてもらうこともなくなった。

患者さんからは「あなたじゃない方がいいわ。全然よくならないもの」「おたく、真面目にやってる?やる気ある?担当変わってよ」と何人からも言われ、病院に在籍している理学療法士の中で一人だけ予約枠の埋まらない日々が続いていった。

遂には院長から「宮森、お前の評判は病院の評判なんだ。わかってるな?」とプレッシャーをかけられてしまう。

さすがにまずいと思って本を必死に読んで覚えたことを患者さんに提供するものの、うまくいかなかった。それもそのはず、本に載っている通りの悩みを抱えた患者さんが都合よく来ることなんてないからだ。

つまり、宮森は学生の頃から引き続き、現状は何も変えられないダメな理学療法士だった。

「人に迷惑をかけているばっかりなら、仕事を辞めて機械みたいに働くのもいいだろうな、やっぱり理学療法士には向いていないんだ…」と退職を考えている時に、宮森にとって最大の事件が起きる。

友人の病気

ある日、小学生時代に所属していた少年野球チームの同窓会に参加した時、こんな話を聞かされた。

「Aがバセドウ病になった。うつ状態にもなって、体も動かせないらしい」

Aというのは同級生の友人だった。ポジションも打順も近く、宮森はこれにひどくショックを受けた。

バセドウ病とは、喉にある甲状腺という臓器が過剰に働き過ぎてしまい、簡単にいえば代謝が良くなり過ぎてしまって疲れやすくなってしまう病気だ。原因は現在でも分かっておらず、薬で症状をコントロールするのが一般的な治療法だ。

当時はダメダメ理学療法士として惰性で整形外科に勤めていた宮森は骨や関節、筋肉の勉強はしていたものの、内臓の病気やそれに対する施術については知識が全くなかった。

そんなダメダメ理学療法士だとはいえ、医療に携わる資格を持っていながら小さい頃から知っている友人のために、何もできない自分がとても情けなく、悔しく感じた。

そこから宮森は本気で勉強をするようになった。何ができるかわからないが、友人の役に立ちたいと思ったからだ。

本気の勉強と壁

友人の病気を知ってから宮森は毎週末にさまざまな勉強会にも出かけた。

リハビリの技術だけではなく、日本では代替医療や民間療法と呼ばれるような整体、カイロプラクティック、オステオパシーなどの知識と技術を学んでいった。

今までのらりくらりと生きてきた宮森は生まれて初めて勉強にのめり込んでいった。必死になって勉強をした。

「何か力になれる技術はないか。もっと他にないのか…」と、そんな思いを抱えて学び続けた。

そして出会ったのが、内臓や自律神経など体の内側を整える技術だった。

しかし、これに宮森はつまづくことになる。

泣きながらの練習と小さな奇跡

宮森が出会ったのは内臓マニュピレーションと頭蓋仙骨療法とうがいせんこつりょうほうという技術だった。そして、この2つの中でも頭蓋仙骨療法はとても繊細な技術が要求されるのものだった。

あまり知られていないが、頭蓋骨は23個の骨が組み合わさってできており、わずかに周期的に動いて脳脊髄液という脳や脊髄など神経への栄養補給や老廃物の排泄を行う液体を循環させている。頭蓋仙骨療法ではこの頭蓋骨の骨1つ1つを調整し、脳脊髄液の循環を良くすることで神経系をリフレッシュさせることで体の内側を整えていけるのだ。

そして頭蓋骨の周期的な動き(頭蓋仙骨リズムと言う)というのが、0.02mm。A4用紙の厚み分の動きなのだ。さらにこの動きを感じ取りながら、5gというわずかな力加減で調整していくものである。

この頭蓋仙骨リズムの動きを感じ取り、さらに5gの力加減を習得するのはすぐには難しい。当然、宮森も勉強会で習った日は頭蓋仙骨リズムの動きを感じ取ることも、5gの力加減もできなかった。「もっと力を抜いて!感じ取って!」と講師に言われるものの、できていないことは自分でもすぐわかった。

それからは孤独な修行の日々だった。

仕事を終えて家に帰ると母親の頭を触らせてもらう日々が続いた。短くても30分、長い時は数時間も練習したが、そもそも正解が分からないため、自分ができているのかできていないのかすら分からなかったのだ。

情けない話だが、分からな過ぎて泣きながら練習していた。しかし、友人のことを考えると諦めるという選択肢はなかった。

練習を開始して3ヶ月ほどすると「あれ…これかな?」と0.02mmの動きが感じ取れるようになってきた。さらに数ヶ月すると、少しずつ調整ができるようになってきて自信もついていった。

この頃には整形外科のリハビリでも患者さんに頼み込んで、最後の数分間は頭を触らせてもらったりしていた。リハビリで頭を触ることはほぼないため、同僚から変な目で見られながらも患者さんから「頭触られるとスッキリするし、力が入りやすくなるなぁ!先生すごいなぁ!」なんて言われると、施術が上手くいったと思って小さくガッツポーズをしていた。

そしてこんな修行の日々を過ごし、知識と技術を磨いて2年が経った頃、友人に頼み込んで施術をさせてもらった。

今思えばまだまだ荒削りな施術だったものの、「すごく楽になったよ」と友人は笑顔で言ってくれた。友人の笑顔を再び見ることができ、自分の努力が間違っていなかったのだと宮森は思えるようになった。

そして、同じ時期に仕事でも変化が訪れていた…。

埋まり始めた予約表

整形外科外来で理学療法士を続けていた宮森はある発見をする。

担当している患者さんの9割近くの方が内科疾患や呼吸器疾患、女性ならば婦人科疾患を患っていたのだ。

本気で勉強する前までは教科書通りのリハビリの技術を用いて骨や関節、筋肉を調整する施術しかしてこなかった。しかし、勉強してきた内臓や自律神経へのアプローチを加えて体の内側から整えていく施術を行うと、今までよりもずっと調子が良くなる患者さんが増えていっていた。

例え、病名がつくような状態でなくても内臓や自律神経への負担が痛みとして現れることを知っていた宮森にとって、もはやそれは当然のことだったがこれほどまでに変化が訪れるとは思ってもみなかった。

内臓の不調によって出る痛みの一例。これを内臓の関連痛と言う。

理学療法士として1年目の頃には病院の中で一人だけガラガラだった予約表は気がつけば埋まるようになっていったし、これまでの努力が実り、自信もついていつの間にか人見知りも良くなっていた。

しかし、まだまだこの物語は終わらない。また、事件が起きたのだ。

帰ってくる患者さん

「先生、また悪くなっちゃって…お願いします」

このように言って、症状が改善してリハビリを卒業した患者さんが症状を再発したり、別の部位に痛みを訴えたして再来院し、リハビリを再開することが起き始めた。

再開したリハビリでも磨いた知識と技術で対応していると症状は良くなっていったのだが、どうにも拭い去れない違和感があった。

「なんで再発するのだろう…原因にアプローチしているはずなのに…」

そんな中、以前に担当していた膝痛の患者さんが今度は肩の痛みを訴えて再来院し、リハビリを再開した。それもただの痛みではない、ちょっと都合の悪い位置に腕がズレるだけで悲鳴を上げるレベルの激痛だった。

医師の診断は肩関節周囲炎、いわゆる五十肩だった。

「先生、ごめんねぇ、せっかくやってもらっていたのにこんなになっちゃって…見捨ずによろしくお願いしますねぇ」と申し訳なさそうな顔で言われた(ちなみにこの患者さんの顔と名前、この言葉は覚えていて今でも時々夢に見ることがある。それだけ印象的な患者さんだ)。

この患者さんとのリハビリが、また宮森にとって転機となる。

痛みで悲鳴をあげる患者さんのリハビリと顛末

ほんの少し腕の位置がズレるだけで痛みが出るため、積極的に動かすことができない。

そもそも五十肩は痛みがひどい時は肩に炎症が起きているため、積極的なアプローチは傷口を広げてしまうようなものだ。そのため、肩の位置がズレないように体幹や肩関節の安定化を図るようなアプローチをしていった。もちろん、痛みが最小限になるように内臓や自立神経の調整も試みた。

しかし、痛みが取れない。教科書では炎症は長くても2週間程度で落ち着くはずだが、2週間が経ってもそれが全く見られなかったのだ。

1ヶ月が経っても痛みが改善しなかったため、担当医師に「〇〇さんの肩はやっぱり変です。レントゲンを撮ってもらえますか?」とお願いした。すると、嫌な予感が的中した。

診断名は上腕骨頭壊死、簡単にいえば、二の腕の肩に近い部分の骨が腐っていたのだ。この結果、患者さんのリハビリは中止、人工の骨に入れ換える手術が適応された。

手術後に患者さんは「骨が腐ってたらそりゃ痛いわよねぇ」なんて言っていたが、それに気づけなかった自分が情けなかった(ちなみに手術後も引き続き担当し、日常生活で問題ないレベルまで改善したのは言うまでもない)。

しかし、疑問は残る。勝手に骨が壊死することはないからだ。

担当医師に聞いてみたところ「何でかわからないけど酒飲みに多いんだよね。あの人、お酒好きでしょ」と言っていた。

その言葉をヒントに今度は栄養学を少しずつ勉強していくと、わかったことがあった。

アルコール類は体内でエタノール → アセトアルデヒド → 酢酸という3段階で分解される。この3段階のうち、エタノールとアセトアルデヒドは人体にとって有毒な物質だ。ちなみにアセトアルデヒドは二日酔いの原因物質とも言われている。

こういった有毒物質があると細胞を傷つけ、炎症を起こしやすくなる。宮森が担当した患者さんはお酒が好きで、毎日のように晩酌をしていた。それを何十年もだ。

つまり、アルコールを慢性的に摂取し続けた結果、血管で炎症が起き、血行不良が起きたことで骨頭壊死に至ったのだ。これはいわば糖尿病の末期と同じような病態だったわけだ。

日常生活の大切さに気づく

これを機にリハビリを再開した患者さんに日常生活上のアンケートを取るようになる。食事や睡眠時間、運動習慣などのアンケートだ。

予感は的中、やはりリハビリを再開したり、症状の改善が遅い人はそれなりに体に負担をかける生活習慣を送っていた。

これは運動習慣がなかったり、ついつい夜更かしをしてしまったり、食べ物に好き嫌いがあったり、栄養バランスが偏っていたりと、世間一般で言われているようなことであったが、それが何年も何十年も積み重なって体に負担をかけていることが予想できた。

このような積み重ねから痛みが出やすい原因が生活習慣にあることをしっかりと説明すると、生活習慣を見直す人は見直してくれたし、それで改善のスピードが劇的に良くなる人もいた。

しかし、体に悪いと思っていても生活習慣の見直しができない人もいた。

医療従事者として厳しく伝えることもあったが、一人の人間としては患者さんが好きなお酒やタバコ、お菓子などの楽しみを奪うことができなかったし権利もなかったので「自分の健康と天秤にかけて楽しんでくださいね」と伝えるに留めることにしたこともある。

それでも良いと思っていたが、現実はそう甘くはなかった。

病院の限界

ところで、医療保険によるリハビリには期間というものがある。

診断名によるが、概ね4ヶ月から6ヶ月程度しかリハビリができないのだ。リハビリの期間を過ぎても医師の判断で継続できるケースもあるが、ある程度まで改善してしまうと打ち切られる。

そもそも病院とは生活に支障があるような「困っている人」がくるところであり、改善して「困ってない人」はくるところではない。

症状が改善して卒業するのは良いことだが、リハビリがなくなることでで「日常生活で気をつけるべきことをついつい気にしなくなって」症状が再発する方もいらっしゃった。

そして、宮森はこんな想いを持つようになる。

「もっと患者さんに継続的に関われる環境でやってみたい」

「それに病名がつくレベルまで体を悪くしてしまえば回復までに時間もお金もかかってしまう。そうなる前に何とかした方が絶対にいいはずだ」

もちろん、病院での業務もとても大切だと今でも思うし、医療従事者の方々に尊敬の念を持っている。しかし、宮森は自分が活動する場は医療機関ではないと感じた。

「ひとりでやってみるか。」

理学療法士を辞め、整体師としての独立を志した瞬間だった。

ついに整体院すいっちを開業!

2015年5月、宮森は整体院すいっちを開業する。

整体院すいっちの“すいっち”には、健康のスイッチを押す、と言うような、きっかけ作りという意味を込めた。

整体院すいっちのロゴ。
健康のスイッチを押され、元気になる人が描かれている。

この屋号は内臓や自律神経の施術法を教えてくれた師匠が「僕はスイッチを押すだけだから」という言葉を使っていて、それを拝借した。ちなみに“すいっち”を平仮名にしたのは退職前に担当していたある患者さんに「ひらがなの方がやわらかい印象だし、先生のやさしさが出ていて良いと思う」と言われたからだ。

このような思い入れのある屋号もつけて、今度はお客様を呼ぶためにさまざまな施策を行なった。

病院とは違い、しかも駅近とはいえ裏通りのマンションの一室の整体院だ。世間からしたら誰も知らないし、怪し過ぎる。それはわかっていたが、お一人お一人に向き合うために、プライベート空間を大切にするためにこのスタイルを選んだ。

なれないパソコン作業でホームページを作ったり、自作のチラシを夜通し歩き回ってまいたりした。すると、少しずつ問い合わせが来てお客様も増えるようになった。

そして、あることに気がつく。当初の予定とは全く違うことになってきたのだ。

宮森は病院勤務時代に「もっと患者さんに継続的に関われる環境でやってみたい」「病名がつくレベルまで体を悪くしてしまえば回復までに時間もお金もかかってしまう。そうなる前に何とかした方が絶対にいいはずだ」と思って独立した。

しかし、整体院にくる問い合わせではこのような言葉が多かった。

「病院に行ってるんだけど良くならなくて…」

そしてまた、思い出深いお客様が来院することになる。

車イスでやってきたお客様

ある日、「チラシを見ました、施術をお願いしたいんです」と40代の女性から電話の問い合わせがあった。まだ独立して数ヶ月、予約もまだまだ空きがあったので二つ返事でその日のうちに予約を入れてもらった。

そして予約時間に現れたその方はご主人に抱えられ、やっとのことで歩いてきた。よく見るとマンションのエントランスに車イスが置いてある。何とか部屋にあがってもらい、お話を伺っていった。

伺ったお話は、なかなかに衝撃的な内容だった。

その方はある日、腰に違和感があったが、今までも同じようなことがあったために放っておけば大丈夫だと思っていた。しかし、痛みに変わってどんどんひどくなり、悲鳴を上げるほどの腰痛になった。

そして腰痛によって全く動けなくなり、救急車を呼び、病院に行くと腰椎椎間板ヘルニアの診断だった。その時には足も痺れ、感覚もなくなり、その頃から車イス生活になったのだという。

しかも「ヘルニアが大き過ぎて手術ができない」と8件も病院をたらい回しにされ、その間も夜中に叫ぶほどの痛みで救急車を何度も呼んだそうだ。

友人の伝手をたどって何とか探し当てたペインクリニックでブロック注射を行い、ヘルニアがほんの少し落ち着いた頃にレーザー手術を2回経験し、リハビリも行なった。

しかし、それでも車イスや杖が手放せない生活が続いていた。

「こんなに辛いのなら何度命を断とうと思ったかわかりません」と言っていた。正直、話を聞いているこっちまで辛くなってくる想いだったが、宮森は心に決めた。

「私にできることは全て全力でやらせていただきます。ぜひ、施術をさせてください」

そして施術が始まった。

痛みで体を動かせない中での施術、そして…

聞いていた通り、女性のお客様は痛みと足の痺れがひどかった。ほんの少し動かしても痛みが出て顔をしかめ、「痛い!」と声が出た。

強い刺激や体を大きく動かすような施術はできないと判断し「体の内側から整えていきましょう」と内臓や自律神経のアプローチをしていった。

効果はテキメンだった。

ひどい痛みと痺れで強い薬を飲み続けていた影響でお客様の内臓はかなり疲労していたようだった。

特に肝臓は薬の解毒も行う臓器なのでかなりの疲労が感じられた。肝臓が疲労して血流が滞ると、腰や足からの静脈も鬱滞し、血行不良によって腰痛や坐骨神経痛などが生じることがある。

内臓や自律神経系にアプローチをすることで内臓が音を立てて動き出した頃に「何だかリラックスして眠くなってきた…」といって入眠された。

引き続き、触れる程度のやさしい刺激で内臓と自律神経の調整していった。

ひと通り施術が終わり、ゆっくりと体を起こしてもらうと「あれ…随分と楽です!嘘みたい!」との声をいただけた。

もちろん、長い間痛みと痺れに悩まされてきたので筋力も低下していたため、杖や車イスがすぐに手放せるわけではなかった。

それでも根気強く通院していただき、日常生活でも見直しのできることはしていっていただいた。

長年の薬の服用で肝臓が疲労しているため、水分摂取を多くして血液の流れを促す。新鮮な魚や野菜、穀物を中心に摂取し、良質なタンパク質や脂質、ビタミン類、ミネラル類を意識してもらった。そしてできる限り早寝早起きなど、考えてみれば当たり前のことをしていただいた。

しかし、痛みに支配されてしまうと、その当たり前のことすらできなくなってしまうのが人間なのだ。それでもできることからやっていただき、順調に回復していって半年が過ぎた頃、嬉しいご報告をいただけた。

「家族と江ノ島に行って、杖なしで頂上まで登れました!」

独立をしてから辛いこともあったが宮森はこの時、独立して良かったと感じた。

あなたにとっての宮森大地

それからも整体院すいっちにはさまざまな方がきてくれた。

  • 病院で治らないと諦められて心療内科を勧められた目眩や頭痛が良くなった方
  • パーキンソン病と診断されるも健常者と変わらないくらいに歩けるようになった方
  • 若くして膝にケガをして正座ができなかったができるようになった方
  • 1〜2分も歩けなかったが今や走れるまでになった脊柱管狭窄症の方
  • 肩が痛くて趣味の草野球が楽しめなかったが高校時代よりも遠投できる中年の方
  • 3年放置した五十肩が今や背中で手を合わせることもできるようになった方

日常生活に大きな支障を抱え、病院でも良くならないと困っていた方々が整体院すいっちに通い、理想の体と人生を手に入れられるようになっていった(効果には個人差があり、病院での対応が必要な場合にはしっかりとお伝えし、病院に行ってもらっています)。

にわかには信じ難いかもしれないが、田舎町のマンションの一室の整体院でこんなことが起きているのだ。

宮森は言う。

「良くなっていった方々は決して、僕の施術だけで良くなったのではありません。食事や運動、睡眠など当たり前のことを当たり前に見直していき、二人三脚で良くなっていったんです。

体が良くなっていくためには、人それぞれに“すいっち”が必要なのですが、誰も教えてくれていないことが多いんです。だから、良くなる“すいっち”を一緒に見つけていくのが整体院すいっちのスタイルです」

もし、今あなたがなかなか良くならない症状でお悩みだとしても、決して諦める必要はないだろう。今のお悩みには必ず原因があって、それは実は取るに足らないような当たり前のようなことに原因があったりするのだ。

整体院すいっちの“すいっち”には、健康のスイッチを押す、と言うような、きっかけ作りという意味がある。

宮森は世の中の人が不調を抱えることがなく、一人一人が自分で自分の体を良くしていくことのできる世界を作っていきたいと思っている。

宮森ならば、あなたの思う健康とあなたの思う人生を手に入れるお手伝いをしてくれる。あなたが人生の最後の時まで、自分の足と自分の意志で生きられますようなお手伝いをしてくれる。

「僕にできることは全て全力でやらせていただきます」

どうか希望を持ってご相談ください。

お問い合わせ先は以下の画像をクリック・タップしてください。

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